宮崎はちわれネコ日誌

宮崎市うろちょろ日記

世の中に疲れた自分へ

コロナ、不祥事、炎上、犯罪、事故。最近嫌なニュースばかり目について、心が疲弊してしまいそうになる。

全て投げ出して楽になりたい気持ちもあるが、そうもいかない。

そんな時どう考えたらいいかを自分のために書き記しておきたいと思う。

 

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気持ちや思考の整理に言葉を使うことは重要だ。

素敵な思い出を上手く言葉にすることができれば、それは宝石のように時折自分を慰めてくれる宝物になる。

しかし悪意や失意を不用意に言葉としていまうと、牙のある獣の様に周囲のみならず、自らを傷付ける事態に発展することがある。


炎上を見る度にそう思う。
自分が第三者へけしかけた獣が、獲物を喰らい、血に興奮したまま振り向きざまに獣を解き放った本人にも鋭い爪を振り下ろす。そんな印象がある。

 

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「自分に利がないと思える存在を許容できるか。」という問題は自分も考えたことがある。

知能に障害を抱えた人たちを社会として庇護する意義とはあるのだろうか、と考えだ。

「健常者と同等のサービスは生み出せず、父母や周囲からの助けが無ければ一人では生きていけない彼ら」をなぜ生かしておく必要があるのか。

「彼らの存在そのものがビジネスになっているから」なのか。「彼らの存在意義を認めなければ、今まで面倒を見続けた苦労が無駄になるから」なのか。「彼らの中にいるサヴァン症候群と呼ばれる人間の描く絵が価値があるものだとされているから」なのか、と考えた。

しかし一向に納得の行く答えは出なかった。そもそも私の思う価値や存在意義が、私の世界のものさしだったから当然である。

私から見れば「サービスを享受するだけで、返すことのできない人間」も、ともすれば彼らから見れば私は「ろくに絵も書かず、毎日あくせく働いて、頭でっかちで金勘定ばかりの役立たず」に映るかもしれないし、ホームレスから見たら「友人と酒を飲み交わすことも空を眺める事を忘れた社会の奴隷」に映るかもしれない。

何が有意義で無価値な事なのかも、見方を変えれば全て揺蕩うもので確実なものはない。

自分が理解できないからといって、存在を認めないというのは、余りにも浅はかだ。

それに私が考えていた差別的思想の根本には「自分が支えられる側になる事は無いという奢り」があった。たまたま運が良かっただけの話に過ぎないというのに。

それに他者への不寛容は自分のあり方にも直接返ってきかねない。自分の首を絞める前にやめることができていれば良かったのにとは思う。

 

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また炎上の特徴に、徹底的に排斥することが挙げられると思う。

理解できない思想を完膚なきまでに叩きのめし、二度とその思想が現れないように草の根分けてでも皆殺しにする。そんな風潮が見て取れる。

私も「強い言葉」で「決め付け」て「対話の余地を残さない」人が嫌いだし、近くにいて欲しくない。

しかし、世の中から排除しようとは思わない。

そんな事はそもそも不毛だし疲れてしまう。

彼らの思いは彼らの思いとして、そこにある。それでいい。

理解はできなくとも、認める事はきっとできると思う。

フェミニズムだろうが、右翼だろうが、左翼だろうが、エセ科学だろうが、いじめだろうが、汚職だろうが、偉そうなコメンテーターだろうが、不安や怒りを煽る報道だろうが、下世話なワイドショーだろうが、利権に塗れたうんざりする世の中だろうが何だろうが世の中から消し去ることはできないが、私の世界から緩やかに一時的にだがご退場頂くことはできる。

その方法は自分と周りの人間の幸せを祈り考える事だ。

自分とその周りの人間の幸せなら、自分のものさしである程度考えられる。

憎しみや排斥の負の連鎖は止まらないけれど、少しの間その連鎖から降りることはできる。

過去や他人など変えられない・変わらないものに労力を注ぎたくない。これからや自分にたくさん時間や労力をかけていきたい。

願わくば、そんな時間を多く持てる人間になりたい。